オーストリア展のコンセプト

歓喜と悲惨

大戦とともに暮らして 1914-1918

展覧会コンセプト

 

  記念の年というものは、過去の総括だけでなく、未来への予想を迫られる時でもある。その記念の年の社会の不安や期待をあぶりだすものなのである。だから2014年現在も、第一次大戦の開戦について記述している数多くの作家が、今の世界と1914年のそれとの類似性を探し出し、将来にかかわる思いをまとめている。そしてたとえば次のような仮定が導かれている。もしも1914年に国連が存在していたなら、事態はどうなっていたであろうか?もしくは、ヨーロッパ連合(EU)はひょっとしたら早晩、当時の同盟関係と類似の状況に立たされるのではなかろうか?似たようなことがもう一度起こらぬという保証を、我々は得られるのだろうか?

1913年、14年当時にも、人々はその100年前の時代のこと、すなわちナポレオン戦争のことを思い起こしていた。イギリスではすでに1905年に、祝祭行事や展覧会、書籍、メダルや記念品などによって、トラファルガーの戦いの記憶を呼び起こす、最初のブームが到来していた。一方ドイツとオーストリアは、1813年から15年にかけてのいわゆる対仏解放戦争時に注目が集まっていた。その頂点は、1913年10月に催されたライプツィヒの諸国民戦争(プロイセン・オーストリア・ロシア連合とフランス間で行われ、これを転機にナポレオンの欧州支配の夢が破れた。訳者注)を記念する行事で、その華々しい記念碑の除幕式がライプツィヒで行われた。この時期おびただしい歴史書も発表され、過去の戦争の回想に始まり、ヨーロッパで将来起こりうる紛争についてまで考察された。これらの著作の多くで、将来の戦争が、公然のこととして次のように語られている。つまりその戦争とは、1813年の対仏解放戦争に似て、「外からの」圧力に抗するものになるであろう、あるいは既得権益の防衛に資することにもなるであろうし、また、その終結時には、新しく秩序立てられたヨーロッパが現出することにもなるであろう、と。よって、この将来の紛争は新たな「解放戦争」であり、その将来にあってもまた、社会的な階級、家系、世代同士の連帯が決定的な意味を持つ「国民的戦争」となるだろう、とされたのである。その時、かつてのテオドール・ケルナーや、エルンスト・モーリッツ・アルントのように、最高の詩人たちが最前線をともに行軍するであろう。一方その時に問題となるのは、現代(1913年)の人々が100年前に比較し得るような課題に、ふさわしいといえるのかどうかなのだ、というのである。ドイツ国家人民党の監修で1914年春に出版された「青年読本」では、第一次大戦中「ブジェズィニー(ポーランド中部の都市名、訳者注)のライオン」として名をはせることになるカール・リッツマン将校が、1813年をふり返ってこう述べている。「当時から私は言っていた。来たるべき時代がいかに深刻なものであろうとも、ドイツ国民がその崇高な使命を果たすためには、真の意味で軍人らしい精神が、我らの間に育まれ養われねばならないのだ。いまいちど私は100年前の偉大なる時代に目を向けたい。真に男らしいドイツの民族精神をおいてほかに、当時、我らを外国の支配のくびきから解放してくれたものがあったろうか?その精神こそが、我らが祖国の未来にとり、欠くべからざるものなのである!」[1]  同書のなかで、女流画家ドーラ・ツィッペリウス=ホルンも、「世紀の祝祭の印にかけて」将来における「我らがドイツの少女たち」に何を期待しうるのか予測している。100年前の当時のように「危機と試みの時代が、なかんずく民衆蜂起が、私たちの前方にまざまざと現れている。」[2] だが何が来ようとも「大いなる危機と大いなる目標には、国民をひとつにまとめる力がある」と。[3]

ウィーンにおいても1913年10月に、ライプツィヒの諸国民戦争が回想されていた。『解放戦争の思い出にウィーン市からの贈りもの』という、ウィーンの子供たちに配られ、広く普及した冊子のなかで、保守カトリックの文芸評論家リヒァルト・クラーリクが、ウィーンの歴史的役割を、反ナポレオン戦線の主力、ドイツ的なるものの中心だと強調し、無数の愛国詩や歌や、また、市と皇帝への、そしてオーストリア人戦争指導者への、恭順を誓う詩を紹介している。その献辞のなかで彼は、子供たちに向けこう述べる。「みなさんの曾おじいさんがたは、とてつもない苦しみを堪え忍びました。とてつもない犠牲をはらわされました。そして文字通りその財産も血も、少しも厭うことなく差し出され、その結果とてつもない勝利をかちえたのでした。」また両親や親戚も「ご先祖の偉業から、ご自身の行動への勇気と確信をくみ取ることでしょう。たとえそれが運命とのひきかえになったとしても」と。[4]

1913年におけるこの回顧運動は、多くの場所で、中心となる精神的な枠組みを構築するための意味づけの取り組みへと発展していった。すなわち、犠牲者は顕著に増え、戦況はひどくなったかもしれぬが、痛みや悲しみのうちにも偉大さが宿っていた、などと。こうした考えがもたらしたのは、諸国民戦争の記念碑をめぐって至る所で「倒れた兵士らを思う涙の海」(それは今日も力強いメタファーであり続けているが)を流すことであり、同時に、戦争の結果はこれほどまでの悲しみにどこまでも価することだったと確信することだった。解放戦争の回想のなかで、戦争の粗暴性はみじんも弱められなかったが、犠牲と悲しみに対してつねに勝利と解放が優位に立つよう帳尻が合わせられた。
一方、2014年におこなわれる式典や戦争回想には、1913-14年のものと比べれば、進んだ側面が認められる。今日のヨーロッパにおいては、戦争は、もはや政治の手段ではなく、また問題解決の選択肢としても、歴史的にも、将来的取り組みという観点でも、論外である。犠牲死と英雄、困窮と偉大さの同居などは、もはや用をなさない。1913-14年とは異なり今日では、「解放戦争」の有意性すら疑わしくなっている。記念の行事には、戦争と暴力は根本的に否定されるべきとのコンセンサスが、どこでも貫かれている。

対照性のドラマトゥルギー

こうしたコンセンサスを背景として、戦争に関する展示のコンセプトを考えると、いくつかの矛盾に突き当たる。まず、その価値を貶めたい事柄が、展示によって却って品よく価値を高めて並べられてしまう危険をどうすればよいのか?展示の中で暴力が伝えられないことなどあり得るだろうか?痛みは展示対象として描くべきでない、とか、当時感じ、体験されたことは追体験され得ない、ということがあるだろうか?戦争に特有な対象、つまり武器や軍服(清浄されプロの手で修復された)などの品に、展示目的でスポットを当てられるだろうか?戦争が混沌としているのに、博物館や展覧会がそれを補足したり秩序立てたりしていいだろうか?これらの問いが物語をつむぐ赤い糸となって働き、対象物の展示の細部にまで反映された。

展示では、第一次大戦のこうした矛盾に注意を払おうとしたのだが、それはこの展示のタイトルにすでに表現されている。「歓喜」と「悲惨」は、戦争の始まりから同じくらいに本質をなすものである。ある者たちが歓喜の声を挙げて戦争になだれこみ、別の者たちは恐ろしい展開をすでに見通していた。続く何年もこの矛盾が特徴となるのである。最初の勝利は、最初の死者達の犠牲のうえに祝われたのであったし、戦争終結のなかにも、破滅と新生、飢餓と戦勝祝賀とが同居していた。戦争の最中にも多かれ少なかれ、半ば公式の「歓喜」の機会がくり返し訪れた。戦勝、解放、征服が祝われ、街は旗で飾られ、閲兵式と祝典が行われた。その頃人々は食料配給の相次ぐ減少に苦しめられ、通りには負傷者や傷病兵があふれていたというのに、である。歓喜と悲惨は弁証法的な対極だ。大戦において、運動におけるはずみ車でともにはたらく、ポジティヴな力とネガティヴな力のように作用する。戦勝の陶酔によって、また「ともに」達成された勝利へ希望をつなぎ続けることで、悲惨は長く忘れていることが出来た。悲しみは集団的な歓呼のうちに少なくとも短期間はまぎらわされ、死者のうちに埋没することができた。だが確かにはずみ車の力は、戦争の進行にあわせて弱まり、「外見上の」勝利ですらも、それを動かし続けることはもはや不可能になる。歓喜と悲惨の間の振れ幅はますます小さくなり、たった一度のパンの特別配給に、人々は歓喜するほどになっていった。

本展示のサブタイトル「大戦とともに暮らして」は、戦争が多くの人々にとり一つのリアリティになっていた当時の事情を強調しているが、そのリアリティの内実は十分探られてこなかった。戦争はしばしばあきらめられ、知識として受け入れられ、日常を構成する部分になった。「大戦とともに暮らして」はさらに、ここで扱われる問題が、決定権者の歴史ではなく、前線か後方地域かを問わず、戦争に多かれ少なかれ受動的に関わる者たちの歴史であることを表している。もちろん少なからぬ人間がこの戦争で、社会的認知の獲得や、個人的問題の解決、名声、冒険、集団的陶酔など、さまざまな願望をもっていた。しばしば激しい論争をまき起こしたのは、政治学者アントン・ペリンカも言っているように、第一次大戦は大衆の意思に反して突如引き起こされたのではなく、多数により正しいと認められた戦争だったのであり、「民主主義の符号をつけられた戦争」だった、という主張である。[5] それとともに新たに責任という論点が提示されるが、それは社会の中ではより根深い問題になるのである。

タイトルの3つ目の部分「1914-1918」は、展示品の時間的枠組みを規定している。展示の内容は戦争直前から始まってすぐに1914年へと登りつめ、1918年で終わっている。長い前史を説明することは放棄し、歴史的な展開はむしろ表現の中に組み入れて提示する。

1918年以降の事件の処理が十分行われなかったことが、次なる大戦の芽を残したのだから、第一次大戦の戦後史もとりこぼすわけにはいかない。1914年、多くの人々が精神的に銃をとり、政治原則としてのその「戦い」は1918年ののちもなお、1945年まで続いたのである。ヨーロッパの西部戦線を不釣り合いに誇大視する世界の傾向を軌道修正するために、本展示では、中央ヨーロッパと東ヨーロッパの出来事を中心に据えている。オーストラリア、中国、日本、インド、アフリカ、大洋や中近東の戦場での出来事に目を向けながら、戦争の世界規模の広がりについても目を配っている。

第一次世界大戦は、全面的な戦争目標、戦時総動員、国家管理が認められる、ある意味最初の「全面戦争」でもあった。それは参加国の大半で、社会のあらゆる生活圏をそれは貫いていた。その限りにおいて、この戦争をもっぱら大国主義の歴史としてでも、また軍事と外交術の歴史としてでもなく、また単なる生活史や個々人の経験を並べたものにもならぬように記録することが重要である。人々に共通する経験を個人的経験と交差させた描写こそが求められるのである。

第一次世界大戦は、近年では旧式モデルと見られている古典的な国家間戦争であった。それはその歴史的一面であるが、現在はその社会的・政治的な側面-戦争拡大へのプロセス、将来への不安、政治的手段としての攻撃の洗練、錯綜した問題を単純な解決法で片付けることへの憧憬など-が注目されている。

テーマについての基本的問いかけ

本展示は4つの基本的な問いかけの上に構成される。第一は、経済的にも文化的にも密接に結びつき、政治手段としての戦争は時代遅れになったと多くの人が考えていた国々が、この戦争に突入したのは何故だったのか?第二に、どのようにしてその国々の社会は戦争に慣れていったのか?いかに戦争とともに暮らすことを学び、その長い継続に備え、いわば順応していったのか?第三に、この戦争から抜け出てそれを終結させるのに、かくも長い時間を要したのは何故だったのか?そして第四に、多くの人々がこれこそが最後の最後と考えたその第一次大戦のわずか十数年後に、さらに破滅的な新しい戦争が勃発したのは何故なのか?

1914年夏における開戦と市民社会への浸食についての第一の問いについては、比較的大きな展示スペースを割いて向き合うことにする。ここで明らかになるのは、さしあたりなお交渉の余地は存在したということである。二つの相矛盾する視点が向き合うことになる。すなわち、国家主義的・帝国主義的利害の枠内で軍国主義の思考・行動に刻印されたひとつの世界と、グローバル化されネットワーク化された世界とが、出会ったのである。6月末の暗殺事件(1914年6月28日、オーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が,ボスニア・ヘルツェゴビナの州都サラエボで暗殺された事件。訳者注)が、7月危機のなかで触媒作用のようにこれらの矛盾を激化させ、開戦時、さらに激しく爆発させた。このようにブレーキのきかない暴力のエスカレーションに直面して「文明」は、ジグムント・フロイトが1914年に規定したように、急速に文化の偽善としての正体をあらわにする。さらに付け加えるなら、どんな社会もそれには抗しえないのだ。まさにこのことがしかし第一次世界大戦の研究を、今日までかくも論争多きものとしている。

第二の問題、すなわち戦争の日常化、「大戦とともに暮らして」のタイトルにあるような、戦争に対する「実利的な」関係性への移行という問題に、展示の次の3分の1が割かれている。ここでは例えば、前線や兵站基地の兵士達の日常や、武器の新しい技術、新たな戦争遂行形態への適応、後方地域における市民と兵士の暮らし、経済への影響、とりわけ食料配給の問題などのテーマが中心に据えられる。またプロパガンダや宗教が、さらに疎開や、戦争捕虜、亡命者、難民、外国人の自国内における強制移送などが扱われる。

第三、第四の問題は、展示の最後の3分の1で取り上げられている。戦争を終結させようとする試みは、しばしば野心的に、しかし成果もむなしく、繰り返し行われた。最後の決定的勝利、「勝利の平和」、新型兵器や新戦術への望みがつながれ、消耗戦や経済封鎖の効果が当て込まれた一方で、和平への計画と交渉、自国内での政敵に対する譲歩、組織的な介入なども存在した。これらすべては戦争状態を終結させ、戦後秩序を探ろうとする試みに資するものだった。多くの人に宿命論が広がり、逃亡、反乱、ストライキ、暴動が増加した。これには制約ある残り少ないスペースを考慮して、展示終わり近くの狭い一角が提供されている。

さまざまな証言記録も、展示品と一緒に示される。それによって感じ取られるのは、大戦が個々人の生活空間や人間の運命にどのように作用したのかや、また一方、戦争とその悲惨を克服し意識の外に押しやるために、人々がどのような工夫をしていたかである。戦時の人々の経験という領域で、重要な視点をもたらしたのは、ルートヴィヒ・ボルツマン戦災研究所の収集キャンペーンで集められた展示品である。2013年春、オーストリア全州に呼びかけて、展示に使える品々の収集活動が行われたのである。

送られてきた4,500点以上の品々のなかから約120点が選び出され、展示されることとなった。これらの展示品の特殊性は、それを貸与した方々にとってその品がもつ意味、その方々により伝えられている来歴と解釈のなかにある。かくも多くの大切で興味深い史料が一同に集められたことは、なんといっても100年という記念の年のお蔭であり、私たちを驚かせた。

本展示にあたっては、様々な分野から参加した数多くの専門家が共同作業をし、新たな研究テーマや問題設定を提供した。近年、若い歴史研究者たちにより、伝統的な歴史像や解釈の背景が問われるようになり、戦争捕虜、大量虐殺、戦争犯罪などの新たな重要テーマが解明されるようになった。歴史の資料を新たに問い直すことは、このプロジェクトと、それに平行した収集キャンペーンの第一義的な目的であるが、同時にそれはこのカタログの目的でもある。その際私たちが知ることになるのは、最後には答えよりも疑問のほうがより多く残されるだろうということである。

KONZEPT “JUBEL&ELEND – LEBEN MIT DEM GROSSEN KRIEG”

Christian Rapp・Peter Fritz / クリスチャアン・ラップ、ペーター・フリッツ(訳/川嶋 均)

[1] Generalleutnant Karl Litzmann, Die deutsche Wehrmacht und die Weltnotwendigkeit deutsch-germanischer Kulturerhaltung, in: Thomas Westerich (Hg.), Das Jugendgeleltbuch. Gedenke,daß du ein Deutscher bist. Leipzig 1914, 50.

[2] Dora Zippelius-Horn,Was wir von unseren deutschen Mädchen erwarten, in: Westerich (Hg.), Das Jugendgelettbuch, 338.

[3] Ebd., 341.

[4] Richard Kralik, Die Befreiungskriege 1813-Festschrift zur Jahrhundertfeier, von der Gemeinde Wien ihrer Jugend dargeboten. Wien 1913. 7.

[5] Anton Pelinka, Demokratie, Krieg und Frieden. Anmerkungen zu den Rahmenbedingungen des Ersten Weltkrieges, in: Bundesministerium für europäische und internationale Angelegenheiten (Hg.), Gedenken l. Weltkrieg. Grundlagenpapier österreichischer Wissenschaftlerinnen und Wissenschaftler. Wien 2013, 11-13, hier 11.

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